Ichu26ギャラリー

のとちゃんこーなー Vol.3

  • LINEで送る
一中前史パート2

2003年を迎えました。働き盛りの皆さんと違って、私の方は、一休禅師の説といわれる「正月は冥土への一里塚」という言葉の感じに近づいてきました。
とは言うものの、こころの中では、一茶の「目出度さも ちう位也 おらが春」といった感じですがね。

皆さんはどのような気持で迎えられましたか。
陰の声あり。
「そんなこと、みんなのBBSを見たらわかるでしょ。」という声が聞こえてきそうです。

ま、三箇日のあと、七草粥、えべっさん、成人の日(この日が毎年月曜日なのか判りませんが、皆さんが中学生時代だったら、「社会科の授業」で、このことで1時間話していたと思います。)
そして、どんとまつり、左義長まつり、こうして松もとれて、日常の生活に戻ってきましたね。
今日19日は「お年玉年賀はがき」の抽選会が行われて、行事としてのお正月はおしまいです。
我が家は「寒のお餅」を松下製の電気器械でついています。

さてさて、15日までは、BBSを控えてきた皆さんも、2月16日のパーチィに向けて、賑やかにカキコが始まるような予感がしてきました。

さて、今回の「お勉強」も私立曽根実業専修学校の話題からです。
かくして、昭和12年(1937年)4月に開校した当校は財団法人阪急学園を設置主体として出発したのですが、大変な人気校でして、昭和17年(1942年)3月の志願者は1年が594人、2年が146人もあり、3日間の入学考査(試験とは言わなかったのですね)により、1年150人、2年50人を入学させたと言うことです。

昭和16年、「日米開戦」という年ですが、4月に「小学校」という名がなくなりました。
名前が「国民学校」となったのです。
軍国主義教育の一端でしょう。このようなことから、上級学校も見直しが行われたのでしょうか。
曽根実業専修学校は「中等学校令 実業学校規程」に基づいて国民学校初等科修了者を入学させる「私立曽根女子商業学校」に改められ、修業年限4年の学校として営まれました。

学校の周辺は大きな旧家や邸宅、空いた土地には松の樹が繁るのどかな風景が広がっていました。
現在の一中の運動場の真中に東西の門がありますが、ここは江戸時代以前から使用されてきた伊丹街道の支線が通っていました。
(ここでCM・・・このHPにリンクしている「豊中の街道」を見てください)

女子商業学校時代はこの街道沿いのところに門がありました。道を挟んで、反対側は先生や百貨店員の住宅になっていたようです。
(HPのテニスコート付近)当時の先生が昼休みに家で休憩をしていたら、生徒が家庭科の調理実習の作品を届けてくれたものですよと懐かしそうに話されていました。
(思いだしたので書いていますが、先生方の住宅のところはひょっとしたら、古墳時代は古墳があったと予想できます。
この近くのグランドマンションからは簡単な試し掘り(トレンチ)で埴輪の破片がたくさん見つかっています。
おそらく、桜塚古墳群の南端だったのでしょうか。といった歴史的な場所に「一中」がありましたとナ。)

この埴輪の破片はしばらく授業で使いましたが、現在は・・・?

皆さんはこんな歴史的な場所で学習していたのですね。

参考書:「新修 豊中市史 学校教育編」70ページを参照しました。
この記事の感想は?
  • いいやん! (0)
  • おもろいな! (0)
  • 普通やん (0)
  • LINEで送る

コメントを残す

*

投稿は管理者の承認後に表示されますので、しばらくお待ちください。(スパム対策)