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のとちゃんこーなー Vol.6

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一中の校歌

皆さんが機会あるたびに、一中校歌を歌っていますが、この作曲家のことが、朝日新聞2004年2月16日付け朝日新聞朝刊の「大阪府版」に載っていましたので紹介します。
記事は「高槻の加藤さん、ベテラン男性合唱率い、円熟の指揮95歳登壇」の見出しで3月28日午後2時から大阪府女性センターの「ドーンセンター」で開かれる男性合唱団「ジュピター・コール」の演奏会で舞台に立たれるということです。

記事によると、
加藤さんは幼いころにクリスチャンとなり宗教音楽に親しんだ。
戦前は府立夕陽丘高等女学校で音楽教諭を務めた。
従軍後に抑留されたシベリアでも歌を忘れなかった。
「零下50度のいてつく抑留生活を生き延びられたのは、折につけ歌が私を励ましてくれたから」と音楽に感謝する。
引き揚げ後はすぐに音楽活動を再開。46年秋(昭和21年)に大阪で誕生した「ジュピター・コール合唱団」の常任指揮者に迎えられた。
(戦後大阪教育大学教授)人々の心が飢(カツ)えた時代に演奏会でロシア民謡や宗教音楽を披露し「大阪にジュピター・コールあり」と一時代を築いた。
同時にかつての女声、混声コーラスを指導した。団は58年に解散したが00年に再結成された。

この指揮者が本校校歌の作曲家加藤直四郎氏で今年95歳、現在も大阪府合唱連盟名誉会長をされているということです。
校歌は55年に生まれたということですので、氏が50歳前後の作品ということになります。
校歌もまもなく半世紀を歩んできたことになりますね。
では、作詞の方の平林治徳さんはどんな方でしょう。
これまた大変著名な方です。
現在の大阪府立大阪女子大学の前身府立女子専門学校を創立された人です。
また、国文学者として著書も数多く出されています。
郷土誌「季刊 大阪春秋」第32号(82.4発行)に教え子の松本静子さんの一文が出ているので、参考にしながら平林さんを紹介しておきましょう。

契沖が晩年過ごし、葬られている円珠庵(大戦で焼けたが平林氏らの尽力で再建された)に平林氏の13回忌の時に建立された顕彰碑の裏面に次のような文章が刻まれています。
「平林治徳君は名古屋の人、大正三年東京大学卒業後、八高(現名古屋大学)、学習院等の教授を歴任、同十三年大阪に於いて、滝村斐男初代校長を扶けて、清新高邁な構想の下に府立女子専門学校を創立し、幾ばくもなく校長の逝去を受けて全国最若年校長に任ぜられ、爾来、或いは大戦中に身を挺して学校を護り、或いは戦後の難局を切り抜けていち早く学校の大学の昇格を達成する等、数々の業績を続けつつ昭和三十四年十二月二日卒然として職に殉ずるに至るまで、前後三十余年という記録的長期に亘って名学長の実を挙げ、更にその間社会文化の進展に広汎且つ高度に参画し、例えば円珠庵の復興に奔走し、或いは文部省大学設置審議会、大阪ユネスコ協会等々全国及至地方関係の十数会議に委嘱され、しかも屡々その代表的地位に推されて終始よく公明厳正の態度を堅持し事は殆ど比類を見ず、こうした偉業は碑面に於ける淡々たる即興歌一首が、身を以て証しているのである。」

そして碑面の即興歌とは

「ましぐらに 我道ゆかん 生き難き

命をつきし われにしあれば  治徳 」

筆者の岡本さんは我道とは女子教育と解していただけばと記されています。

わが国の女子教育史の中では、御茶ノ水女子師範学校や津田梅子の津田塾が知られていますが、西日本では女子教育の出発が平林さんの功績大なる事を知ってもらって豊中一中の校歌を歌ってほしいものです。
なお、この方の校歌は大阪市立松虫中学校でも作詞されています。(作曲は永井幸次大阪音楽大学創立者)
このような著名な方に引き受けてもらったのですが、どのような経過で本校と繋がっていったかは不明です。

ついでに、私事で失礼ですが、私は長く豊中に勤務していましたが、勤務校は一中と六中の2校だけです。
そこで、六中の校歌についてもちょっと紹介させてもらいます。
六中はご存知のとおり、新制中学校発足の47年(昭和22年)の時は、豊能郡庄内町という行政区で中学校は庄内町立中学校でした。
後、55年に豊中市に合併し、豊中市立庄内中学校となり、59年豊中市立第六中学校となりました。
校歌は53年に庄内中学校校歌が誕生しました。
作曲は永井幸次さん(音大が庄内にあるのも縁なのでしょうか)作詞は国語科の先生方です。

(一)
春爛漫の山桜
霞む御空の揚雲雀
菜の花筵うち敷きて
此処に立ちたる庄内校
(二)
夏灼熱の陽は落ちて
猪名の川原の闇に飛ぶ
蛍を見ては偲ぶかな
学びの道の尊さを
(三)
秋玲瓏の草の露
蒼穹高く気は澄めり
いざや鍛えん此の身体
御国の為に尽すべく
(四)
冬凛冽の朝明けて
六甲の嶺に降る雪の
汚れ知らぬを鑑にて
吾等修めん己が身を

このように時代の特色が表現された校歌でした。
ところが学校名が変わったことで、生徒の方から新しい校歌を制定してほしいという要望が、毎年生徒議会を通じて出されました。
当時の井戸校長が佐伯孝夫さんと知りあい(?)だったということで、新しい校歌はビクターレコードの作詞家佐伯孝夫さんにお願いされたそうです。
そして作曲は名コンビの吉田正さんということで、六中校歌が誕生しました。
校歌の披露は校内の記念行事とともに当時流行りのソノシートにして生徒全員に配られました。

吉田正さんは茨城県日立市出身ということで記念館が七回忌にあたる今年2004年4月27日に完成記念式で、吉永小百合や橋幸夫など芸能界その他関係者のみのご披露、4月29日から市民に公開だそうです。
もちろん、ソノシートも届けております。
数多くの作曲数ですが、校歌は早稲田大学応援歌、茨城県内の7校ほどと聞いていますので珍しいかなと思っています。
吉田さんに関心のある方はHPをご覧ください。

以上で、校歌の勉強は終わりです。
歌詞や顕彰碑の漢字は旧字体は現在のものにしています。

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