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のとちゃんこーなー Vol.4

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「川島ゼミ版・二十歳のころ02」

皆さん、お元気ですか。皆さんのBBSは定期的に拝見しております。
しかし、私の方は世代ギャップも感じてというより、PC技術ギャップで書けなかったという事でしょうか。

ところが、このコーナー向けの記事を提供してくれた救世主がおりました。
Y君という方です。彼は関学で指導している「社会科教育法」の受講生です。詳しくは後で知ることができるでしょう。

この記事は他のインタビュー記事と一緒に「川島ゼミ版・二十歳のころ02」という立派な本になりました。
そこで、このことについて川島先生の緒言を引用しながら紹介させていただきます。

「川島ゼミ版・二十歳のころ02」は関学の社会学部社会福祉学科で川島先生が指導されている研究演習(三回生が所属する専門ゼミ)で実施しているプロジェクトの産物で、昨年度が最初の作品で、今年度が2冊目の習作だそうです。
先生によりますと、このプロジェクトはゼミ生による様々な方へのインタビューとそのまとめの体験をすることがねらいですが、ここに到達するまでに次のようなテーマでいろいろなねらいが秘められているそうです。
このゼミのテーマは「使える・役立つ援助技術」ということで、心理臨床、臨床ソーシャルワーク、人間関係トレーニングなどの現場で実践経験を積んだ担当教員の背景を反映して、基本的な対人コミュニケーションの知識とスキルの習得を中心に、それらをソーシャルワークを始めとする様々な援助場面で応用できるようにすることを目指していると言うことだそうです。
こういったことは机上だけで取り組んでも、身につかないと思います。
先生も講義だけでなく、実際に体験を学びの素材にするような方法論を展開されていますが、今回のようなインタビューでは「自分のコミュニケーションのあり方を認識すること」と「人の話を丁寧に聴くこと」に主眼をおいているということでした。

川島先生がこのような発想に立たれた理由として、対人コミュニケーションを学ぶためには、大学という守られ、限られた空間、学生同士または教員と学生というある意味で均質な人間関係の中だけでなく、大学以外の場面での様々な関わりもしっかり体験させたいという思いがあったとも記されております。
日ごろから学外のセミナーや講座、ワークショップなどへの参加も奨励され、先生ご自身も幅広く活躍されていると聞いています。

ところで、私の場合は、先生のことばにあったように、教員と学生という関係だけでは均質性が見られて、インタビューを受ける者としてはまずいのではないかと思ったのですが、Y君から度重なる依頼があったものですから、応じることにしました。

この記事を読まれて、30年前に私と関わってくれた皆さんの中学時代のエピソードと違っていないか心配ですが、そこは大きな心でご容赦下さい。
では、ご高覧いただけたら幸いです。

能登 宏之氏にきく

春学期の試験も終わり一息ついた8月5日にインタビューを行った。
話し手は、私が春学期に受講した「社会・地理歴史科教育法」担当の能登先生である。
その講義の中で面白い指導法を教えていただき印象に残っていた。
私が在籍している関西学院大学(以下関学と略す)の卒業生でもある能登先生。
早速、お話を伺ってみることにした。

――関学が僕に与えてくれたもの――
能登先生は関学のご出身ということですが、どちらの学部学科でどのような学生時代を送っておられましたか?
僕は文学部史学科で大学に入った当初は大きな教室で一般教養科目を受講するのが主でした。
先生方のお話までは覚えてないけど、印象に残っているのはチャペルの時間で1、2回生の頃よく出ましたね。
そして僕の所属していた史学科は当時50人弱だったと思います。
その中に日本史、東洋史、西洋史に分かれていて大学の後半で、ある程度専門を絞りこんでいきました。
僕は西洋史専攻でルネッサンスをしていましたが、愛好会は考古学に入っていました。と言いますのは僕は県立伊丹高校の出身なのですが、そのすぐ近くに伊丹廃寺(注1)という現在では史跡公園になっている所があるのです。
そこで高校時代から発掘する経験をさせてもらい、その流れで大学に入ってからも考古学に関心を持っていました。
当時、関学では武藤誠先生が兵庫県の文化財の色々なお仕事をしていたこともありまして伊丹廃寺についても甲陽史学会(注2)という団体が中心に発掘を進めており、そのお手伝いをしていました。

結局高校から大学まで伊丹廃寺はずっと掘らしてもらいました。
ただ当時の発掘は無報酬でまさしくボランティアでした。ですから主に大学の長期休業のときに発掘に参加したのですが、基本的には今のように職員を募ってアルバイトという形式ではなく、とにかく学生の勉強という意味合いの濃い発掘でした。
霜柱の立つ冬の現場、背中から汗が流れる夏の酷暑の中でもやってきたことは色々な意味で私を作ってきたと思います。
例えば辛抱する、耐える、目標に向かってがんばるというものですね。

あまりがんばるという言葉は好きではないのだけど。
そして発掘というのは土の中に何が眠っているのか、というのをウキウキしながら楽しむわけですから、その未知への想いというのがあったし、実際に出てきた遺物に対して凄いな、という印象がありますね。
友人は内部作業を経験していましたが、僕は掘り方が中心でした。

発掘して新聞に載った、というお話はありませんか?
当時、神戸新聞がそういうことに熱心でよく取材にお見えになっていました。
ただ我々は作業員なので、応対は史学会の会長さんや調査団体の団長さんがされていました。
当時は今みたいに皆がTシャツを持っているのではなく、学生服の下に着ていたワイシャツが傷んだから発掘の時に着るという形でした。
新聞社の方が写真を撮るため「ちょっと学生さん入って下さい」と言われたとき、まあワイシャツでは堅苦しいだろう、ということで発掘風景に裸で出たことがありますね(笑)。
もっとも背中から撮られたので誰か分からず、撮られた本人だけがよく覚えている、という思い出がありますね。
それが新聞デビューの最初でした。

発掘現場ではいつも夕方五時頃に教育委員会の人が酒3本程提げて挨拶に来られるのです。
そして廃寺の敷地に関係している人が湯のみと茶を用意してくれてコップ酒をやっていました。
これで自分は飲めるな、と妙に鍛えられた印象が強いですね。

僕らの時は飲酒の取り締まりも厳しくなかったし。
僕は家が伊丹で歩きか自転車で帰るから、いつもいい気分になって1日が終わった、そういう発掘でしたね。
現場である程度、発掘が進むと写真を撮るのです。
僕は自分のカメラを持っていなかったので、それを買うためにいっとき24時間操業の会社で夜勤のアルバイトをしていました。

ということで、あまり勉強の話は出てきていませんが、必要最低限というか勉強するときはする、という風にしていましたね。
習った先生で印象に残っているのは英会話の尾原先生、ギリシヤ史の粟野頼之祐先生。
直接的には講義を聞いていませんが、史学科の重鎮として長くこの文学部をお作りになった努力をされたと聞いています。

それから、その門下生と言っていいのでしょうか、柘植一雄先生ですね。
大変残念ですが、お亡くなりになったと聞いています。
柘植先生には卒論の指導など色々していただき、ゼミ旅行も一緒に行きました。
それと現在、教授の福島先生ですね。助手から講師になった頃だったと思います。
僕らも随分研究室でお世話になりました。

影響を受けたのは、どの先生ですか?
どの先生方にも色々な面でお世話になったからね。
我以外皆師、という感じでとにかく影響を受けた先生ばかりですね。
それから4回生になって教育実習がありました。
僕の実習は伊丹市立東中学校という出身校でしたが、野球部も見ていました。
ところが、実習後も土日になると生徒が僕の家へ来て「先生、教えに来てえな」と言うものですから、子どもが好きですし校区でしたから「よっしゃ、よっしゃ」という感じでボランティアで行っていました。
日曜は発掘だったので無理でしたが、そのような出来事があって教師に向いているのかな、という気になったのでしょうね。
そして22歳で就職しました。
そのときの思いはどのようなものでしたか?
もう、そのときはとにかく子どもと遊びたい!
遊びも仕事の内と考えていて、そういう思いで楽しませてもらいましたね。
だから社会科の専門というよりも生徒会活動など何か子ども達とワイワイしているのがすごく楽しい時期でしたね。就職した年は1年だけ八尾にいたのです。
もう就職先がなくて3月の終わり頃、卒業してからかな、教育委員会から声がかかって八尾に勤めさせてもらったのです。
僕は当時伊丹に住んでいましたが、鉄道が不便だったので片道2時間以上かかったのです。
それではクラブ活動とかの生徒と遊びの時間がとれない。
それで校長先生に迷惑かけたな、と反省しているのだけど、1年目で転勤させてもらったのです。

これは、たまたま発掘で知り合った豊中の先生が「豊中で社会の先生を探しているみたいや」と言っていたのです。
もしかしたら無理言うたらいけるんちゃうか、と思って校長先生に話してみたのです。
そしたら絶対アカンと。新任は4、5年勤務しないといけない、と断られたのです。

けれども僕は「とにかく生徒と遊びたい。生徒会活動、クラブ活動、放課後に色々な作業をしていくうえで遠いのは致命的や」と言ったのです。
そして、とうとう最後の最後に校長先生が「もう…その代わり君が教師生活の中でいつかは八尾の教育のためにがんばってくれよ」と言われて、僕は先生のこの御恩を忘れないということで精一杯、仕事に打ち込んできました。

後で聞いた話ですけど、新任の先生をとるか、経験のある先生をとるか、ということだったそうです。
結果的に転勤出来て、1年後の春休みの学級お別れ会は先生の出身大学へ行こう、となって関学へはそれ以来、毎年お別れ会のときに来ていました。
でもその後、学生紛争があって金網が張られていて生徒を連れて入れないから、行き先も変わってしまいましたね。

ところで唐突ですが、20歳の頃に戻りたいとお考えになったことはありますか?
色々と自分を作ってきたという意味はあるけど、戻るとしたらやはり30代後半、40代に戻りたいですね。
僕は初めて生徒達と研究誌と言う名目で本を作ったのが38歳のときですから、あの前後ぐらいが一番楽しかったですね。
その頃は先生が一番燃えている時期ですね。
子ども達とどのように接してこられましたか?
クドクド言わなかった。
よく生徒指導的に言うのは手を離す、目を離すな、と。
クドクド言うのは結局、手で捕まえているのと一緒になるからね。
だからその辺は軽く話して本人さんにあとで考えてもらう、そんな付き合いしてきましたね。そして生徒とずっと関わってきたのは生徒会活動です。
これは生徒と遊ぶというのが原点にあります。
例えば他の先生がびっくりしていたのは、カラオケというものが始まる前から僕は学校でカラオケ大会をしていました。

雨の日は生徒が体育館に集まって、まるで大学のフォークソングのような雰囲気が学校にあったね。
70年代、生徒数が1000から1200人くらいの時、たった20分の休み時間に500人くらい集めたね。
そこでどんなことが出来るかというと普段、陰でワルサをする生徒が来る。また体育館入るのに靴脱ぐでしょ。
そのとき記名の指導も出来るという別の効用もあり、あの頃は楽しかったですね。

それと当時では広まってなかったボランティアクラブを作ったのです。
そして生徒が終業式の後に掃除をしようと提案を出してね。
もちろん前日に掃除をしますが、終業式の後は掃除がないのです。
ところが、式の放課後に部活を終えた生徒達が土足で上がってくることがしばしばあったので、校舎の廊下、階段という共有部分を全て掃除しましたね。
そのうちに日常的に出来る活動として手話を覚えよう、となりましてね。

教え子の1人が豊中市の「波の会」という手話の会に所属していて、ボランティアクラブのメンバーになってもらったのです。
その教え子を介して聾の方を紹介してもらい、手話の学習会が出来たのです。
機会を提供した僕も参加せなアカンかったけど、学校の業務に追われてしまい参加出来なかったね。
そういうことで生徒の要望にはなるべく応えましたね。

それから図書館の主担になり、入りやすい図書館を作ったのです。
標記が請求番号のままだったので、ジャンルごとに区切って看板作りをしたのです。
生徒が看板を作ってくると僕はそれをすぐに設置して、その生徒に「図書館に設置したから見に行ってみ」と言うと、その生徒は「もう出来たん!?」という感じで、すぐ図書館へ行き、それを見て喜んでいましたね。
そしたら「また何かない?」となって熱心に手伝ってくれましたね。
そこで次はミッキーマウスを作ることになったのです。
OHPシートを使って不用となった古いカーテンにミッキーマウスを映して耐水性の絵の具で色塗りして、新入生歓迎の垂れ幕を作ってくれました。これを入学式に使ったのです。入学式に校舎の四階から「WELCOME!」と書いたミッキーマウスの絵を出すと、新入生や保護者が喜んでくれたのです。

なかなか面白いですね。
面白いやろ!こんなことばっかりしとったのです(笑)。
あと80年代に全国的な傾向でしたが中学校が荒れていた時期があり、その中でも地道に文化祭に取り組んでいる姿を知って欲しい、ということで校長先生に許可を頂いてテレビの取材に応じたこともあります。
奈良の大仏を実物大で描いたのが、新聞の地方版に出て、テレビ局から声がかかりました。
そのとき関西テレビと読売テレビが取材に見えられたのです。それから僕が教科指導、文化祭でもこだわったのは「君らは豊中の子やから、豊中を知っておかないとアカンで」ということで郷土研究クラブを作って毎年、豊中の「何々展」を指導してきましたね。
僕は文化財の仕事もしているから、そんな情報も色々入ってくるので子どもの素材になるようにしてやりました。
ときには社会教育課の人が個人的に収集しているものも借りて豊中古代展とか空襲展とかネタを集めて文化祭の時に調べさせました。
また僕がいたとき、ちょうど年が合ったから豊中一中40周年、阪急電車70周年、阪急バス50周年、という展覧会をしたのです。
古い切符、車両の写真などを展示したら保護者が「懐かしいなぁ」となってね。

これがきっかけで親子の会話がどこかで生まれないかな、という思いもあるのだけど。
この当時は電車のマナー広告が出た頃で、阪急からそれをお借りして、電車の車内のようにした会場に吊って。
生徒が、ではなく、まるで僕が楽しんでやっているみたいだけど(笑)。
だから、どっかに遊びがあって自分も楽しめるようにせんとね。
民間会社は仕事が限られていて、その会社の枠の中にはまって動かないとアカンけど、教師はときにはこういうクリエイティブとかコーディネートをしなければならなくて、そこが自分に合ったと思います。
それと考えて突き詰めていくことが好きやからね。とことん突き詰めて一つのことにならないことも多いけど、その入り口のとこは好きですね。

突き詰めていく、というのは発掘と似ていますね。そういう意味では20歳の頃の経験が影響していますね。
まあ、そう言われたらそうですね。豊中空襲展のときは新聞にも出て大阪府下からも人が集まってきました。
当時、ああいう古いものを並べて展示するというのがなかったので。
郷土研究クラブの豊中空襲の冊子もそのときに作られたのですか?
いや、あれは空襲展から5年後かな。
そこから大学の先生が喋るような専門性はないけど、たまたま地域の歴史のことを話す機会があって、その講演の時に「見る・聞く・触る」(注3)のパターンが確立したのです。
資料は借り物も多いけど、出来るだけきちっとした冊子を作るということです。
せっかく来てくれた人に紙切れ一枚や手ぶらで帰っていただくのは失礼、というのが僕のサービス精神です。
今でこそ教師はサービス業と言われていますが、僕は昔からサービス業と思っています。
子どもの喜ぶことは何でもしてあげたいという思いが固まり、最後はそれを大人の生涯学習の場で使うようになり「見る・聞く・触る」をやりだしたのです。
今回こちらの大学でその機会を与えてもらっただけでもスゴイ収穫です。
びっくりしたでしょ。
どうですか?あれだけの品物を見て。
実際なかなか手に入らないし、ガラスケースの中に入っていて触れないものも多いでしょ。
全盲の子を教えるときにも「触る」の部分があったのです。
私は教職の講義をいくつか受けてきましたが、こういう形式の講義をされた先生は初めてで、このような授業は過去にもなかったですね。
違った切り口で指導されていて面白いな、と思いました。
あの「見る・聞く・触る」は初めてかな。
僕はあの品物を集めるため、古本屋や古物店に出掛けますが、値打ちある物、古銭等が欲しいけど、かなり値がはるものもあります。
僕は生徒に見せたいというのが原点だから高いものでなくてもいい、とにかく教科書に載っているものでいいと思って集めたのが講義で紹介したものです。
常にサービス精神をお持ちですね。
本学のスクールモットーであるMastery for Service(注4)を忘れずに、しっかりと心の中に留めておられますね。
ああ、そう!そのMastery for Service!
大学の時から本当にいい言葉だな、と思っているのです。
とにかく自分が熟練になって子ども達に何か返してあげたいと思っていたのです。
もう僕の教師生活に流れているのはこれです。
そしたら今も昔も能登先生の中で変わらないのはMastery for Serviceと言っても過言ではないですね?
そうです。
これからも変わらないと思うし。
それと僕は頼まれたらなるべく断らないというところがあります。
例えば講演会を頼まれた時、ここで断ったら、この依頼者はまた次の人を探すのに苦労するのでは、とつい考えてしまうのです。
ならば、僕が応じてあげたら彼の苦労は収まるのではないか、と。
相手の立場になって考えるというのは、やはり大学の頃のMastery for Serviceが根にあるね。

ちょっと意味が違うかもしれませんが、鑑賞行事を市民会館でしているのですが、終わりしなに「足元にゴミが落ちてないか?」と言うのです。
「一人一人がゴミ箱へ捨てに行くのも時間かかるから、あなたの上着のポケットを今日はゴミ箱にして欲しい」と言うのです。
粋な言い方やろ!(笑)まあボランティアや。

本当はゴミが出ないのが理想だけど、中には捨てた人がいるかもしれない。
「立つ鳥あとを濁さず」なんて堅いこと言えないから君のポケットを提供してくれないか、と遠回しの言い方をするのです。
これは僕が映画をよく見ているから、こんなキザな台詞が出てくるのですね(笑)。
僕は日常から上着のポケットはゴミ箱になっていますね。

ゴミを捨てる所がなかったら入れていくのです。
また電車の車内に空き缶が転がっていたら降りしなに拾っていくのです。
昔、駅に新聞が散らばっていたので、それを集めて捨てたら「能登さん、そこまでサービスせんでもいいんとちがう」と言われたけどね。
別にカッコつけているわけではないのです。

誰かがボランティアをしてあげたらいいのではないか、そしたら不快感が少しでも減るのではないか、と思うのです。
お互い、そのひとときを気持ちよく過ごすためにもね。
「俺が、俺が、の我で生きるよりおかげ、おかげ、のゲで生きよう」ということやね。
これは昔の人の言葉やけど、上手いこと言いはるわ。
その通りだと思います。
限られた人生、気持ちよく生きましょう、というのも大学で得たのかもしれんな。

最後に後輩へメッセージをお願いします。
やはりMastery for Serviceですね。
自分の学んできたことを社会に還元しようとする姿勢を持ってもらいたいし。
あと日頃のニュースの事実はテレビで分かるけど、真実を求める精神を持ってもらいたいですね。
そして新聞を読んでほしい。
それと要領よく生きるという生き方やけど、要領の部分をいい意味で使えばいいけど人を出し抜いて、ということは止めてほしいな。
最後は心の中に平和の砦を。
お互いを大事にしたら争うことがないからね。
この世は「おたがいさま」で生きていると思うんやけどな。

  1. 伊丹廃寺…伊丹市北部の陸上自衛隊総監部前面に奈良時代前期の創建になる法隆寺式伽藍配置に寺院跡があった。ここを甲陽史学会の指導で1958年から1966年まで九年間にわたって発掘した。現在、史跡公園になっている。
  2. 甲陽史学会…田岡香逸氏、高井悌三郎氏、宮川秀一氏らが主宰する民間の研究団体(1985年に著作目録を発刊)。
  3. 見る・聞く・触る…実物の遺物を直接見る、実際に触る、音色を聞く、匂いを嗅ぐという体験を通して理解を深めるための指導法。
  4. (4)Mastery for Service…関西学院大学の第四代ベーツ院長がつくったスクールモットー。私達は知識や技術に熟達し、自己の創造的天分を伸ばして人格の形成に向かって努力しなければならないが、それは単に自己の名誉や栄達というような利己的目的のためではなく、社会に貢献し隣人に奉仕するためでなければならないという意味で、「奉仕の練撻」と訳される。
インタビューを終えて

インタビューを実施するまでの間、どのように進めていけばよいか迷っていた。しかし、能登先生から色々なアドバイスをいただき、無事に終えることができた。当日、最初はやや緊張していたが、次第に和やかな雰囲気となり、インタビュー終了後も色々なお話をしてくださった。
インタビューを通して能登先生の教育に対する情熱ぶりを改めて感じた。8月の猛暑の中、大学まで来ていただき快くインタビューに応じてくださったことに心から感謝したい。

いかがでしたか。
この本には、川島ゼミの学生がそれぞれ対談の相手を探して、インタビューをしています。
たとえば、高知県知事の橋本大二郎さん、元フジテレビ・スポーツキャスターの松倉悦郎さん、障害をもっている人への理解を幅広く推し進めている牧口一二さんなど十余名の方の「二十歳のころ」が掲載されています。興味関心のある方は連絡してください。

今回の「我がこーなー」のお勉強はこれで終わります。
次回は間があきましたが、「一中前史3」を掲載する予定です。

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